野田尚武税理士事務所
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独断と偏見の歴史入門


−第3話− 「戦国武将の本気の死ぬ気」


 「織田がこね、豊臣つきし天下餅、座して食らうは、徳川家康」この歌は、当時の人々が口にした狂歌です。戦国勝ち抜き戦の覇者3人の立場と役割を見事に言い当てている歌だと思います。100年近く続いた戦国時代を終結へと導いた信長、彼の事業を継承し、天下統一を実現した秀吉。そして江戸幕府という、安定政権を樹立した家康。戦国時代はこの3人の見事なバトンリレーによって終焉します。そんな彼らは互いに全くタイプの異なる武将でした。しかし彼等の生涯で共通した事実があります。それは彼等が人生に一度、十中八九死ぬと思われる戦を自ら仕掛けている点です。後世の我々から見ても、その戦は無謀でした。しかし敢えて彼等はその戦いを決行します。それは、運を天に任せたとしか言いようのない戦いでした。今日は、そんな彼等の本気で臨んだ死地についてのお話です。


1.織田信長 「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰」

 彼は若年、その振舞いの突飛さから、尾張のうつけ者と呼ばれていました。しかし、その頃の逸話をよく読んでゆくと、彼の中に脈打つ新しい時代への嘱望が垣間見えます。それは、同時代の人々から見れば、奇怪に写った事でしょう。常勝軍として、多くの戦いを勝ち抜いた織田軍団の秘密は、そんな彼の合理性・完全能力主義にあったと言えます。彼には烈火の如く敵を攻めるイメージがありますが、丹念にその戦いを分析すると、彼が事前に入念な準備をして、絶対に負けないという確証を得てから出陣していた事がよく解ります。短気な性格が表に出ていますが、戦に関してはかなり慎重であった事が伺えます。

 そんな彼が、おそらく人生においてただ一度、生死を分ける賭けに出た戦いがありました。「桶狭間の戦い」がそれです。当時、全国統一に最も近いと言われていたのが、尾張の東に位置する大大名、今川氏でした。今川家は、その・経済力・軍事力ともに他国を大きくリードしており時の大名今川義元が京を目指して上洛すれば尾張はひとたまりもなくその軍勢に蹂躙されてしまう運命にあったのです。信長は、その頃ようやく、弟との家督相続の争いを終結させたばかりの新興勢力に過ぎませんでした。その今川義元が遂に進軍を開始します。万を辞しての進撃でした。こうなっては織田家になすすべはありません。次々に出城陥落の報告が入る中、清洲城内では降伏か籠城かを廻って軍議が重ねられました。ところが、当の信長はその軍議に顔も出さず、奥の部屋に寝ころがっているばかり、家臣達は、やはり若殿はうつけ者かと半ばあきらめておりました。大方の意見は籠城戦に持ち込み、今川方の出方を伺うというものでした。まともに考えれば、この策以外に、織田家の取るべき道はなかったはずです。今川の軍勢2万5千に対して織田方は、かき集めても5千が精一杯。これでは戦う前から勝敗は決しています。しかし信長はこの時、決戦を決意していました。家臣が軍議を重ねている部屋に行かないのも、その意志がすでに固まっていたからでした。

 今川義元一人を狙い撃ちする、それが唯一の戦法でした。その為、信長は義元の居所を知らせる報告を待っていたのです。「桶狭間の本陣にて義元が休息中」との報告を耳にした信長の電撃的行動は有名です。只一騎で駆け出した彼を供回りの物があわてて追いかけたという記録が残っている程です。出陣の前に彼は、「敦盛」の中で特に好んだ一節を謡いかつ舞ったといいます。「人間五十年、下天の内に比ぶれば、夢幻の如くなり」舞いながら、彼は十中八九生きては帰れない事を知っていたはずです。この戦いの結果、信長の賭けは見事に成功し、東海一の弓取りと言われた今川義元はあっけなく討ち取られてしまいました。この戦いから後、信長をうつけ者とは、もはや誰も口にしませんでした。この戦い、勝ったからよかったものの首尾よく義元が討てなかった場合、織田家は間違いなく滅んでいました。その確率ははるかに高かったはずです。後の信長の戦いを見れば、この一戦がいかに無謀な賭けであったかがよく分かります。きっと信長は、己の戦国武将としての運を、この一戦に賭けたに違いありません。もしここで死ねば、自分はそれまでの人間と彼はそう思いながら、桶狭間に向けて馬を走らせたのでしょう。


2.豊臣秀吉 「鳴かぬなら鳴かせてみよう不如帰」

 秀吉は一介の草履取りから軍団長へと出世し、やがては、信長の後継者として天下統一を成し遂げました。いかに下克上の戦国時代とはいえ、他に類のない彼の出世物語は今も多くの歴史ファンを魅了してやみません。もちろんその出世は、信長という、能力主義を貫いた主人あっての事でした。しかし、足軽以下の身分でありながら、信長にその才能を認めさせた秀吉という人物は、やはりただ者ではなかったはずです。彼の才能は、合戦そのものより、その戦いに至る過程で発揮されたと言えます。いかに損害を少なく戦闘を避けながら戦うかが、彼のテーマでした。それらをバランスよくこなしたからこそ、彼は織田家の中でも異例のスピード出世を果たしていくのです。しかし、古参の武将の中には、そんな彼の出世を苦々しく思う者も少なくありませんでした。世渡り上手の秀吉は、様々な方法で重臣たちのご機嫌をとろうとしますが秀吉の家中での評判は、決して芳しいものではなかったようです。

 秀吉が、一軍団長として、その頭角を表わし始めた頃、織田家は正に破竹の勢いで勢力を伸ばしていました。京を制圧した信長は、次の標的を越前の朝倉家に向けて進撃します。通過点の近江には浅井氏が居りましたが、当主浅井長政は信長の妹を娶った、義兄弟の関係にあり織田家の同盟国でした。信長は何の障害もなく近江領を通過し、金ヶ崎に達します。ところが、そこで彼は驚くべき報告を受けます。浅井氏が信長を裏切り、朝倉軍と呼応して織田軍を挟み撃ちするべく進軍中というのです。そうなれば織田軍は退路を絶たれ、文字どおり袋だたきの目に遇ってしまいます。さすがの信長も、この反逆には打つ手がありませんでした。「この戦い、やめる」瞬時に決断した彼は、さっさと京へ引き上げる決意をします。とは言え、数万の軍勢が退却する場合、かなりの時間が掛かります。損害なく兵士を退却させるためには、殿軍とよばれる居残部隊を置くのが常套手段でした。彼等が攻め寄せる敵兵を引きつける囮兵となり、その間に本隊が安全な場所へと退却するのです。但し、この状況で殿軍となった者は、まず生還は望めません。誰が殿軍を務めるか、軍議に張りつめた空気が漂います。その時、進み出たのが秀吉でした。「殿軍の役、私に御任せください」彼は決死の居残部隊を自ら志願します。秀吉が死を賭けた一瞬でした。

 織田軍のあわただしい退却が始まる中、秀吉の率いる殿軍は無謀な籠城戦に向け準備を進めます。彼を憎んでいた他の家臣達も織田軍の囮となり、二度と戻ってこないであろう秀吉達の為に、自軍の鉄砲や食料を分け与えたといいます。秀吉は、この殿軍戦で、単なる世渡り上手のイメージを払拭しようと考えたのでしょうか。事実、その後彼の評価はそれまでと全く違ったものとなってゆきます。織田軍の主力部隊が去り、金ケ崎の砦に籠った秀吉の殿軍部隊の前に浅井・朝倉の大軍が迫ってきます。「わしの言う通りにすれば、必ず生きて帰れる。そうすれば恩賞は望みのままぞ」秀吉の大音声は家臣一人一人を鼓舞したことでしょう。死兵と化した秀吉軍は寄せ来る大軍を相手に砦を支え、主力部隊が十分退却できる時間を稼いだところで、逆に城外へ討ってでます。不意を突かれた敵軍の一瞬の隙を衝き、秀吉軍はいっきに逃げ落ちていきました。見事な殿軍戦でした。家臣達の心を一つに結束させ、砦の力を借りて敵の攻撃を支え、かつ隙を衝いて退却する。並みの武将にはできない芸当と言わねばなりません。しかしこの時生還できたのも、すべては彼の強運によってでした。その事は秀吉も十分に承知していたはずです。この後、彼は二度と無謀な戦いはしていません。この戦いは、文字どおり秀吉が自分の命を賭け、勇猛果敢な戦国武将の一人である事を問い正した戦いだったのです。


<3.徳川家康 「鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰」

 徳川家がまだ松平家を名乗っていた頃、三河の国は織田・今川の両家に挟まれた弱小勢力に過ぎませんでした。松平家は、今川氏に追従する事でかろうじて、その存在を維持していましたが、その代償に世継ぎである家康を人質に取られていました。家康は母親のぬくもりも知らぬまま、幼年期を他国の地で過ごさねばならなかったのです。しかも彼の父は、その後乱心した家臣に殺された為、家康は人質の身でありながら幼い当主となります。松平家の家臣達は、当主不在のまま三河の地をを守らねばなりませんでした。しかも今川氏は戦闘の際、必ず三河勢を最前列の消耗部隊として利用していました。家臣達は幼い当主家康の身を案じながら、いつの日かその指揮下で戦える日が来ることを信じて、常に死と隣り合わせの先鋒を務めていました。本来、戦国期における主従関係は、今の我々が想像する以上にドライなもので、忠義や忠誠といった発想は、江戸期に生まれる思想でした。戦国期家臣が主君を見限る例は数多く見られます。しかし松平家の家臣団は違いました。当主不在の逆境を耐えぬき、さらに結束を固めていくのです。この驚くべき団結力こそ、徳川家康が戦国の覇王となれた最大の要因だったと思われます。

 今川義元が信長に討たれ、今川家の力が急速に衰退していく中で、ようやく松平家は独り立ちを果たします。その後家康は信長の忠実な同盟者として、その覇業を支えつつ、自らの勢力拡大に務めていきます。信長の家康に対する扱いは、同盟者としてより、むしろ家臣としてのそれに近かったといいます。しかし、彼の率いる三河軍の精強振りはすでに有名で、しばしば織田軍の逆境を救う活躍を見せます。横暴な同盟者に対しても常に低姿勢で接する彼の律義者というイメージは同時期の武将達に深く刻まれた事でしょう。その評判が後に天下分け目の戦いとなる関ケ原の合戦において、多くの大名を味方に付ける要因となっていくのです。

 晩年、豊臣家を滅ぼす為に謀略の限りを尽くす一時期を除いて、家康は生涯を、辛抱強い律義者で通しています。その戦い振りも、無理攻めを慎み、確実に戦果を挙げる正攻法が目立ちます。しかし、彼も又生涯でただ一度だけ無謀な戦いに身を投じています。「三方ヶ原の戦い」がそれです。

 急激に勢力を拡大し、向かう処敵なしの信長が唯一恐れていた武将、それが甲斐の武田信玄でした。彼の率いる騎馬軍団は戦国時代が産んだ芸術品と評され、その強さは当時すでに伝説的なものとなっていました。信長は武田信玄に対して、追従の意を現し、表面上決して対立姿勢を見せていませんでした。しかし信長を敵視する足利義昭の再三に渡る要請に応じて遂に武田信玄が動き始めます。四方に敵を作り転戦を繰り返していた織田軍にとって最大最強の敵、武田騎馬軍団の出現は、まさに絶体絶命の危機でした。そしてそれは同時に同盟者たる家康の危機でもあったのです。武田軍が京の信長を討つべく進撃すれば、当然彼の領国を通過しなければなりません。そうなればまず血祭りに挙げられるのは徳川軍でした。「決して討って出ずに、籠城せよ」という信長からの使者の言葉どおり、家康は恐々たる思いで籠城戦の準備を進めます。ところが武田軍は、領内に姿を見せたものの、家康の存在を無視するかのように、通りすぎて行ったのです。敵に後ろを見せることは、軍団にとって致命的行為となりかねません。全面の敵との挟み撃ちに合いかねないからです。しかし武田信玄は、あえて家康を無視します。徳川勢などものの数ではないと言わんばかりの行動でした。この行為に家康は激昂します。まともにぶつかれば万に1つも勝目のない戦、そのことは家康も、信玄も承知していました。「だから城に籠って命乞いしていろ」という信玄の嘲笑が聞こえてきそうな行動だったのです。家康は突撃を命じます。もちろん生還の望めない戦いでした。

 この時彼を衝き動かしていたのは戦国武将のプライド以外の何物でもありませんでした。冷静に判断すれば籠城しているのが最良の選択だったはずです。家臣の多くは、突撃に反対しますが、家康はそれらの諌言を聞き入れずついに徳川軍は三方ヶ原で武田軍と激突します。追撃する徳川軍に対して武田軍は少しも慌てることなく、速やかに全軍反転するや、徳川軍を迎え撃ちます。小勢ながらも、徳川軍は奮闘しますが、なにせ相手は戦国最強の騎馬軍団です。さしたる準備もなく立ち向かった家康の軍勢は、やがて散々に討ち負かされ、家康は馬も無くして戦場に孤立してしまいます。家臣がようやく家康を見つけ出し、「城へお戻りを」と声を掛けますが、家康は汗と泪でぼろぼろになったまま、敵陣へ切りつけようとするばかり、家臣は自らの馬に家康を乗せると、持っていた槍で馬の尻を刺し、家康が制止しても馬が聞かずに暴走するように仕向けると、自分はその場に残ったといいます。馬上で家康は少年のようにぽろぽろと泪をこぼし、何度もうわ事のように死んでいった家臣の名を呼び続けたといいます。

 武田信玄はこの戦いの後、陣中に於いて没し、信長は危機を脱します。
結局時代は、信長と家康にその未来を託した形となり、戦国最強の武田軍は、その後次第に勢力を弱めていきます。歴史的敗北を喫したこの「三方ヶ原の戦い」に於いて、家康は古い家臣を数名失ってしまいました。しかし、その代わりに彼が手にしたものは、おとなしい律義者という彼のイメージを払拭させるに十分な戦国武将家康のイメージでした。勝敗にこだわらず、向かうべき時には全力で戦う。やがて人々は、彼を東海一の弓取りと呼ぶようになっていきます。


 以上が3人の決死の戦いについてです。いずれにおいても、彼等は九死に一生を得ています。もし、敗北していれば彼等は単なる戦国武将の一人として歴史にその名を止める事も少なかったでしょう。そこにはもちろん、幸運がつきまとっています。